神久 智恵
松居屋珈琲
旧中山道の宿場町として栄え、今もどこかゆったりとした時間が流れる高崎市新町。街道沿いに佇む「松居屋珈琲」の扉を開けると、芳醇な珈琲の香りと、まるで親戚の家に帰ってきたかのような温かな空気に包まれる。
ここはかつて、明治時代から旅人や地元の人々を迎えてきた「松居屋旅館」だった場所。歴史ある看板のバトンを受け継ぎ、新たな息吹を吹き込んだのは4代目店主だ。
18年間の給食調理員としてのキャリアを経て、50代でカフェオープンという夢を叶えた店主。なぜ今、この場所で珈琲を淹れるのか。その軌跡と空間に込められた美学を紐解く。
18年越しの夢と、受け継がれた「松居屋」のバトン

かつてこの場所には、立派な木造建築の旅館が建っていた。時代とともに建物は姿を変えたが、「松居屋」という名前と、ここに集う人々の記憶は脈々と生き続けている。
“子どもの頃は本当に昔ながらの古民家でね。今思えば取っておけばよかったと思うくらいの建物でした。ずっとカフェをやりたい気持ちはあったけれど、結婚して、子育てをして……まずは生活のために給食のお仕事(給食士)を18年間続けていたんです。”
子どもたちが成長し、自分の人生を改めて見つめ直したとき、胸の奥に眠っていた情熱が目を覚ました。
“ここでやらなかったら、60歳になったときに『あの時やっておけばよかった』って絶対に後悔すると思ったんです。やるなら今しかないって。”
昼間は給食を作りながら、休日は新宿のカフェスクールへ通い詰め、半年で経営とスイーツ、1年でバリスタ資格を取得。50代からの挑戦に最初はプレッシャーもあったという。
“歴史ある場所だし、小さな街だから『あそこの娘さんが何か始めた』ってどう思われるか、最初は本当に心配でした。でも、オープンしてみたら地域の人が『美味しいよ』って来てくれて。不安は少しずつ自信に変わっていきましたね。”



過剰に飾らない空間と、街の名物を受け継ぐ「一杯の思想」
店内に足を踏み入れると、天井に巡らされた白い鉄骨が目を引く。古民家風にしすぎず、アンティークも主張しすぎない。若者からお年寄りまで誰もが気負わずに過ごせる「万人受けする心地よさ」を追求した空間だ。
“お年寄りの方は意外と『古民家すぎると昔の家みたいで嫌だ』っておっしゃることもあって(笑)。色々な椅子やテーブルを揃えて、狭苦しくない絶妙な距離感を作りました。あえて店内に時計も置いていないんです。時間を気にせず、家のようにくつろいでほしくて。”



提供されるメニューにも、独自のストーリーと職人としてのこだわりが詰まっている。
特に人気を集めているのが、かつて近所で40年間愛されながらも閉店した名店「トムソン」から受け継いだ秘伝の「スープカレー」だ。商工会の引き合わせもあり、店主から直接レシピを教わったという。
“街の大切な味を絶やしたくなくて。今でも『トムソンのカレーが食べられるの?』って遠方から来てくださる方がいます。受け継げて本当に良かったなって思っています。”

また、ランチには18年間の給食調理で培った確かな技術とアイデアが活きる。旬の野菜をたっぷり使った週替わりランチやハンバーグは、地元客の胃袋を掴んで離さない。
そして、カフェの核となる珈琲豆は、バリスタスクール時代の恩師との縁で鳥取の焙煎士から直接仕入れている。
“鳥取ってスタバが全国で一番最後にできた県でしょう? それだけ独自の珈琲文化や美味しいお店が多いのかなって。深みがあるけれどすっきり飲めるブレンドで、ランチと一緒に頼んでくださるお客様も多いんです。”
「幸せな食事でした」——
新町の日常に寄り添う居場所として
“この新町って、みんな通り過ぎちゃう街って言うけれど、すごく住みやすくて温かい街なんですよ。”

近隣の和菓子屋や飲食店、ラーメン屋の店主たちとも互いに行き来し、ライバルではなく「応援し合う仲」としての関係性が築かれている。最近ではSNSや口コミを見つけて、埼玉など県外から訪れる客も増えた。
“お店に入ってくるときは少し緊張した表情のお客様が、帰りぎわにはニコニコして『ごちそうさまでした』って帰っていかれる。それが何より嬉しいですね。以前『幸せな食事でした』って言ってお帰りになった方がいて……美味しいだけじゃなく『幸せ』って言っていただけたのは、本当に胸がいっぱいになりました。”
迷っている人へ。「楽しむしかない」というエール
“未来の夢ですか? うーん、やっぱり古民家をベースにしたカフェもやってみたいです。あとは焦らず、時間をかけて『松居屋の珈琲はおいしいね』って言ってもらえる存在に育てていきたいですね。”
最後に、かつての自分と同じように「やりたいこと」と「現実」の間で踏み出すことを迷っている読者へメッセージを求めると、店主は柔らかい笑顔でこう語ってくれた。
“利益だけを追求しようとするとカフェは大変かもしれない。でもね、来てくれた人がかけてくれる温かい言葉や表情で、自分自身がすごく幸せな気持ちになれるんです。
もし迷っているなら、楽しむしかないですよ。『あの時やっておけばよかった』って後悔するくらいなら、思い切って飛び込んでみる。私は本当に挑戦して良かったと思っています。”
明治の宿場町から続くおもてなしの心は、形を変え、今日も一杯の温かい珈琲とともに新町の街を優しく照らしている。

歴史ある建物の継承と聞くと、どこか重厚で肩肘張ったものを想像しがちですが、『松居屋珈琲』に流れていたのは、どこまでも等身大で温かい「暮らしの延長にあるおもてなし」でした。
18年の経験を自信に変え、50代で新たな物語を紡ぎ始めた4代目店主の姿は、ローカルで生きる私たちに大きな勇気を与えてくれます。新町を訪れた際は、ぜひ時間を忘れてその居心地の良さに浸ってみてください。
神久 智恵
松居屋珈琲 4代目店主。明治時代から続く「松居屋旅館」の家系に生まれる。若い頃からの夢だったカフェ開業のため、18年間務めた給食調理員を辞し、50代で東京・新宿の専門学校へ通いバリスタ資格等を取得。実家の跡地をリノベーションし「松居屋珈琲」をオープン。

松居屋珈琲
群馬県高崎市新町2837(旧中山道沿い)
営業時間:平日:11:00〜16:00(L.O.16:00)/土・日 Morning 9:00〜16:00(L.O.16:00)
IG @matsuiya_coffee
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